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正教会の神学校には教衆(教役者)・神品 (正教会の聖職)養成機関としての働きを主目的とするものもあるが、神学教育・神学研究に主眼を置くものもある。いずれも共同生活を行い、奉神礼をともにし、神学校が教授を行う知識・技能を修得し、精神性を涵養するものである点には変わりがない。神学校を経験・卒業することは教衆・神品に叙聖される事の必須要件ではなく、神学校の経験が無い者の中にも神からの恩寵と適性が認められて神品に叙聖される事も珍しくない。日本正教会には東京正教神学院があり、信徒を対象に教衆・神品の養成に当たっている(ただし学校法人格は取得していない)。入学にあたっては司祭からの推薦、教会・学院による入学許可、主教による祝福などが必要となっている。

委任統治を担当する国は、受任国という。大戦中に該当地域を占領した国が受任国となっている。また、委任統治が適用される地域は、委任統治領または委任統治地域という。委任統治領は、地域住民の自治能力の程度に応じて、A・B・Cの3段階に分類され、統治の方法が異なる。A式は、住民自治を認め、早期独立を促す地域である。この地域は早期独立を前提としていたので、その住民には受任国とは別の国籍が与えられた。B式・C式にあたる地域は、住民の水準が自治・独立に未だ不十分であるため、受任国の介入が期待される地域である。B式は、宗教その他の面で地域住民の独自性を可能な限り尊重することが要求され、受任国とは別の法制度による統治方法がとられる地域である。C式は、人口が少なく地域の文化が受任国の文化と共通点が多いため、受任国の構成部分として扱うことが許された。B式・C式の地域住民に対しては、国籍は与えられなかった。委任統治の監督は、国際連盟理事会の権限であるが、その事務処理を行うための常設の委任統治委員会が設置された。各受任国は、定期的に国際連盟理事会に対し、該当地域の統治に関する報告をする義務がある。この類型に属するのは、オスマン帝国の支配下にあったシリア地方(シリア州、アレッポ州など)とメソポタミア地方(バグダード州、バスラ州、モスル州)である。

しかし1917年秋、友軍の危機を救う必要があったドイツ軍は東部戦線の状態が一段落ついたこともあり、オーストリア軍に山岳部隊を含む6個師団を援軍として派遣した。指揮権もオーストリア軍からドイツ軍へと移され、10月26日に独墺軍はトルミノ付近において突破作戦を敢行、イタリア陸軍に大打撃を与えた(カポレットの戦い)。この敗北を真摯に受け止めたイタリア軍は新たな司令官アルマンド・ディアズと英仏の支援の元に戦線を建て直し、1918年夏のピアーヴェ川の戦いではオーストリア軍の進撃を押しとどめた。ディアズはヴィットリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍との戦いに決着を付ける。カポレットの戦いの後、連合国側はイタリアのラパッロで会談した。其処でそれまでの個別の戦争指導を改め、ヴェルサイユに連合国最高会議を設立して各国の状況を考慮しながら統一された戦争計画を推進する事を決めた。西部戦線が塹壕線で膠着した頃、東部戦線では流動的な状況が続いていた。緒戦でロシア軍はオーストリア領ガリツィアおよびドイツ領東プロイセンへ進攻したが、ガリツィアでは勝利を得たものの、東プロイセンではタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。開戦前の予測は外れ、ロシアの軍事力はドイツとオーストリアとを足し合わせた国力に対抗できないことが露呈した。1915年春、ロシア軍はガリツィアから撤退した。独墺軍は5月にポーランドの南国境でゴルリッツ突破戦を実施し、著しい前進を達成した。独墺軍は8月5日にワルシャワを占領、ロシア軍はポーランド全土を放棄した。これは「大撤退」とも呼ばれる。

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