他国との外交と計画経済
2006年3月28日に行われた総選挙では、中道政党カディマが29議席と第1党に躍り出た。カディマは労働党などと連立政権を組んだ。1948年の建国と共に創設されたイスラエル国防軍(IDF)は、国の防衛の任にあたる。建国以来の度重なる周辺アラブ諸国との実戦経験により、世界でもアメリカ軍と共に最も練度の高い軍であるとされる。文字通りの国民皆兵国家であり、満18歳で男子は3年、女子は1年9ヶ月の兵役に服さねばならず、その後も予備役がある。能力があれば兵役猶予が認められ、高等教育機関で学ぶ機会を与えられる。拒否した場合は3年の禁錮刑を受けることになるが、女子のみ条件は少し厳しいものの良心的兵役拒否が可能である。少数派のドルーズ教徒とベドウィンは兵役に服すが、超正統派ユダヤ教徒、アラブ系イスラエル人(ユダヤ教徒でないもの)は兵役が免除されている。
後任として士官学校以来のナーセルの盟友で副大統領のサーダートが就任し、ナーセル体制にかわる経済の自由化を進めることになる。なお著書『革命の哲学』が訳された(角川文庫ほか、1971年)。中東戦争においては、エジプトなどによって海峡封鎖が行われ、イスラエル船舶の通航が不能の時期があった。第四次中東戦争後はエジプト・イスラエル平和条約が結ばれ、シナイ半島駐留多国籍軍監視団の監視により、自由通航が行われている。エジプト領海内は、エジプト・シナイ半島のリゾート地シャルム・エル・シェイクから、日帰りで出かけられるダイナミックなダイビング・ポイントとしても有名である。
1992年の中国共産党第14回大会が行われる前に、鄧小平や陳雲など党長老たちは、鄧小平を中心とする「第二世代」から江沢民を中心とする「第三世代」へスムーズに権力の移譲を行うために、後継者を選出した。さらに鄧小平は「第四世代」を代表する50歳以下の人物を将来の指導者として選出することを提案した[44]。この時、宋平が将来の指導者として胡錦濤を推薦した。結果として、胡錦濤は中国共産党中央政治局常務委員に選出された。これは中華人民共和国建国史上2番目の若さだった。同時に中国共産党中央書記処書記にも選出された。胡は江沢民の後継者と見做されていたが、胡は自身でなく江沢民が注目されるように注意を払っていた。2000年に江沢民が提唱した3つの代表理論に対し、自らを毛沢東や鄧小平に並べるための売名行為との批判が出たが、胡はこの理論を宣伝した[45]。そのため、彼は穏やかで礼儀正く、協力関係を築くのに熟練しているというイメージを持たれた。1998年には国家副主席に就任していたが、江は胡が対外関係でより積極的な役割を担うことを期待した。1999年のコソボ紛争におけるNATO軍の空爆で中国大使館が誤爆された際には、中国政府を代表してテレビ演説を行った。胡錦濤はこの演説で「アメリカをはじめとするNATO軍は我々の大使館を攻撃し、人命を奪い建物を破壊した」[46]「アメリカの爆撃は中国の主権侵害であり、『犯罪行為』で『野蛮な行動』だ」「市民と学生のデモは人民の怒りのあらわれだ」[47]と述べた。そのうえで、「中国政府が全ての合法的なデモを支持していることを表明し、国民には、国家の根本的利益を考えて過度な反応は控えるよう呼びかけた。2002年の中国共産党第16回党大会で権力の移譲が行われ、江が権力の中心から退いた。しかし江は自身の派閥である上海幇から呉邦国、賈慶林、曽慶紅、黄菊、李長春を中央政治局常務委員に配置し、また自身も党中央軍事委員会主席のポストを手放さず、院政を敷くものだと思われていた。
国土の西部には大地溝帯の北端でもあるヨルダン渓谷がある。ここには死海もあり、標高が極めて低い。この地域は冬でも温暖であり、近年の灌漑技術の発達により、野菜や果物の一大生産地に変貌した。ヨルダン渓谷の東側に位置する高原地帯。アンマンやカラクなどもこの高地帯に位置する。南部にはヨルダン最高峰のラム山(1、754m)もある。国土の80%は砂漠地帯に属する。