王政から共和政へと核兵器政策
1939年、陸軍士官学校卒業後、ナーセルは英・エジプト共同領アングロ=エジプト・スーダンでの勤務を申し出、同地に赴任。第二次世界大戦が勃発すると、エジプトを解放させるため、ナーセルはアンワル・サーダートと共に、イギリスの敵国であるイタリアの数人の諜報員と接触して、イタリア軍がエジプトに侵攻した時と同時に、反英軍事クーデターを起こすことを計画した。結局、計画は頓挫し、変って反英愛国の将校で結成する自由将校団の結成に加わり、その指導者のひとりとなる。1948年、イスラエルが建国され第一次中東戦争が始まると、少佐としてアラブ連合軍に参加。アラブ連合軍が敗北すると帰国した。1952年7月23日、自由将校団がクーデターを起こし、1953年に王制を廃止する(エジプト革命)と、第一次中東戦争で活躍した将軍ムハンマド・ナギーブを首班に迎えてナギーブを委員長とする革命指導評議会を結成し、権力を握った。
コメコンではメキシコ、モザンビーク、フィンランドといった非社会主義協力国もあった。東アジア(ベトナム、ラオス、北朝鮮など)、中南米(ペルーやチリ、ニカラグアなど)、アフリカ(アンゴラ、リビア、コンゴなど)などでも「民族解放」、「反帝国主義」、「植民地独立」を唱える共産主義独裁政権の成立に協力し、アメリカや西ドイツ、イギリスやフランスなどの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。ソビエト連邦の軍事支援により、蒋介石率いる中国国民党との国共内戦に勝利した中国共産党によって1949年に設立された中華人民共和国とは当初協力関係にあったが、1950年代後半より両国の指導層による相手国への非難の応酬や大使館乱入事件が起きるなど徐々に関係が悪化した。1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争)や指導層の思想的な相違の問題から中ソ対立が表面化した。両国間のこのような対立関係は、その後中華人民共和国における内乱である「文化大革命」が終結する1970年代後半まで続くことになる。
初任総合科修了後は、原所属の警察署に戻り、通常の勤務に復帰する。初任総合科の修了をもって、新採用時の研修が全て終わり、一人前の警察官であると警察社会の中で認められるようになる。初任総合科教養が修了した後も、基本的には卒配先の警察署で勤務を続けることになる。その後、人によって差はあるものに1年〜数年程度勤務した後、他の警察署等の所属に異動することになる。また、この頃に本人の希望や適性などにより、専門の部署に異動する場合もある。警察職員として都道府県に採用された者は、概ね1ヶ月程度警察学校に入校して初任研修を受ける。職務の内容が異なるので、当然警察官とは別のカリキュラムによる教養を受けるが、科目によっては警察官の学生と共通の講義を受ける場合もある。
2003年、心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律が成立した。心神喪失などの精神障害者で、罪に問えない者を強制的に鑑定入院させる制度である。しかし、期限が無期限であること、精神障害者をことさらに危険視していることなどを理由に、新たな予防拘禁制との批判も強い。だが、医師だけでなく裁判官が決定に関与する点が行政拘禁とは異なる。ネパールでは、破壊活動防止令により、司法に依らない、郡知事による1年間の予防拘禁を認めている。2004年10月3日、90日より延長された。パキスタンでは、「パキスタン国家の安全」にかかわるものに対し予防拘禁が可能。拘禁事由は15日以内に呈示。通常は3ヶ月を限度とし、更新は6ヶ月毎の審査を要する。