路面電車と関連著作
ブルガリア赤十字社 ブルキナ・ファソ赤十字社 ブルンジ赤十字社
8月15日、イスラエル国防軍(IDF)によりガザは全面封鎖され、入植者に対し48時間の自主的退去が呼びかけられた。8月17日にはIDFは、最後まで籠城を続ける入植者と、それを強く支援するユダヤ教原理主義者やより過激なカハネ主義者の強制排除に乗り出す。強制排除は人口2500人を有するネヴェ・デカリームから開始され、ガディードやクファル・ダロムなどでは反対派がシナゴーグに篭城し、IDFに対し激しく抵抗したが、8月22日には最後に残されていたネッツァリームも制圧。わずか1週間で全入植者の退去を成し遂げた。8月23日には西岸の小規模入植地4箇所の解体に乗り出した。ホメッシュやサヌール、とりわけサヌールでは入植者がオスマン・トルコ時代に建造された要塞に篭城し激しい抵抗にあうものの、結局これも1日で500人の入植者を退去させ、9月12日までには入植地跡の整地にも成功。IDFも完全にガザ地区から撤収した。シャロンが撤退を決断した理由としては、なによりもイスラエルが抱える人口問題が挙げられる。先進国は軒並みそうであるが、女性の社会進出が進み、それに付随し出生率が低下する。イスラエルもその例外ではない。イスラエル人女性が生涯に産む子供の数は平均2人強。それに対しアラブ人・パレスチナ人の出生率は6人〜20人にも及ぶ。仮にイスラエルが占領していたガザ・ヨルダン川西岸・ゴラン高原をすべてイスラエル領と規定した場合、早晩アラブ人・パレスチナ人の人口比率がユダヤ人を凌駕してしまう。パレスチナ人が多数派になればそれはユダヤ人国家であるイスラエルの終焉を意味する。シャロンはそのことを最も恐れたのである。[要出典]
12月6日、イスラエル国防軍のトラックがバンに衝突する交通事故が発生。この事故でジャバーリーヤのパレスチナ人4人が死亡した。難民キャンプで催された犠牲者の葬儀はやがて暴動と化し、数百人がタイヤを燃やし、警備に当たっていたイスラエル国防軍への攻撃するに至った。暴動は他の難民キャンプに広がり、やがてはエルサレムに至った。12月22日に、国際連合安全保障理事会はインティファーダの最初の数週間にパレスチナ人の死者が多数出たことで、ジュネーブ条約違反としてイスラエルに対する非難決議を採択した。パレスチナ解放機構(PLO)もこの民衆の動きを支持すると共に、海外にパレスチナ問題解決への支援を促す外交を展開していった。パレスチナ人の用いる暴力的手段の多くは技術的にレヴェルの低いものであった。多数の10代のパレスチナ人少年たちがイスラエル兵のパトロールに対し、投石を浴びせかけたのである。しかしやがて戦術はエスカレートし、火炎瓶による攻撃に取って代わられ、さらに100回以上の手榴弾攻撃や銃や爆弾による攻撃が500回を越えておこなわれた。これによって多くのイスラエル市民、兵士が死亡した。パレスチナ側とは対照的にイスラエル国防軍は最新の兵器と「防衛」手段をもって対し、世界最新水準の拷問技術も用いられた。
イスラエル国防軍は建軍当初から、宗教との分離を誇ってきた。しかし、英国BBCの取材リポートによると[3]、ここ近年はユダヤ教の聖職者であるラビが、兵士たちに影響を与えているとイスラエル国内外で懸念されている。イスラエル国防軍の従軍ラビは、国防軍の新規則により、軍部隊の指揮官と連携して兵の士気を高める行為も担っている。従軍ラビは、軍の士官学校において軍事教練の他、ユダヤ人国家の兵士の精神を守ることを教えられ、いざとなれば一般の兵士と共に戦闘に参加する。これについて、聖職者であるラビと軍隊を一緒にすることに批判もある。2008年末から始まったガザ戦争では、「この戦いは神のための戦いである」と書かれた冊子や旧約聖書が配られたと、ガザ戦争に従軍した退役将校Gal Einabが証言している。Einabによれば、戦闘前には民間のラビと従軍ラビが同行し、まるで自分が十字軍の一員になったかのようで違和感を覚えたという。ガザ戦争では、従軍ラビは、数多くの宗教的な冊子を配った。冊子には「イスラエルは光の子供、パレスチナ人は暗黒の子供」などと記され、パレスチナ人をペリシテ人になぞらえるものもあった。イスラエル軍は、冊子と軍のスタンスは関係は無く、従軍ラビも任務にのみ専念しているとしているが、冊子には軍のスタンプが押され、退役兵士のNPO団体「沈黙を破って」によれば、ガザ戦争中、従軍ラビは兵士に対して「残酷になれ。残酷になることは必ずしも悪いことではない」と説く者もいれば、今度の戦争の敵は、パレスチナ人だけではなく、イラン人やイスラエル国内に住むアラブ人も敵だと教える従軍ラビも居たと主張している。